黒田官兵衛を支え続けた妻・光姫ゆかりの圓應寺

戦国時代、軍師として活躍した黒田官兵衛は、生涯の中で光(てる)姫ただ一人を妻として愛し続けたと伝えられています。 家の存続のため多産が求められた時代に、一夫一婦制を貫いたのは珍しく、夫婦の絆がいかに強かったのか分かります。官兵衛の妻、光姫を供養する碑が福岡市中央区・圓應寺にあります。
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光姫は志方城主(兵庫県加古川市)櫛橋伊定の娘で、播磨の御着城主・小寺政職の姪にあたる女性です。

官兵衛の父・職隆は小寺政職に仕える身で、政職の媒酌で官兵衛22歳、光15歳のとき結婚。圓應寺の前にあったのぼりに「黒田官兵衛が生涯愛した妻『光』のふるさと 加古川」と書いてありました。

光姫の生涯は波乱に満ちたものでした。

荒木村重が織田信長に反旗を翻し、説得に行った官兵衛が有岡城に1年間幽閉された際には、信長が人質である長政の殺害を命じました。竹中半兵衛に救われ、息子長政の殺害は免れたものの、そのときの光姫の心痛は計り知れないものだったと思われます。

また、秀吉の朝鮮出兵の際には、兄長政の朝鮮出兵に加われなかった次男・熊之助が秘密裏に中津を出奔し、途中で船が沈没し、溺死するという不幸に見舞われました。

光姫は、慶長7(1602)年4月、息子長政が治める福岡城と次男熊之助が溺死した玄界灘がよく見渡される大手門前に黒田家の菩提寺として圓應寺を開基したそうです。

光姫は夫・官兵衛が亡くなったのち、出家して照福院殿となりました。

夫と息子はキリスト教の洗礼を受けていますが、光姫は熱心な浄土宗信徒だったようです。

圓應寺には、照福院殿の墓碑や遺髪、肖像がなどがあったそうですが、昭和20年の福岡大空襲で瓦礫となりました。

現在の碑は昭和55年に再建立されたものです。

「容色うるわしく才徳兼備」と称され、戦国の世に生きた天才軍師を支え続けた妻、光姫。

晩年は穏やかに過ごし、1627年、75歳で生涯を終えました。
光姫をしのぶ法要は昨年から市民に公開しており、8月26日には光姫の388回忌法要が行われました。

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